月ケ瀬に、かっての、あの名車がやってきた
それは先週、日曜の月ヶ瀬
当日の月ヶ瀬は天候も良く、多くのライダーが早朝から集まっていた月ケ瀬に、かっての、あの名車がやってきた
それは先週、日曜の月ヶ瀬
当日の月ヶ瀬は天候も良く、多くのライダーが早朝から集まっていた先日、HONDAが2026年からF1に再参戦すると発表した
この記事を読んだ時、得も言われぬ感動が自身の身体を駆け巡った
HONDAは過去にも再三「F1から撤退と復活」を繰返している
過去の撤退の理由は「業績に影響が・・・」とか、だったように記憶している
だが2020年の撤退は「次世代エンジンの研究開発に経営資源を投じたい」とした理由からだ
そして今回のは復活の理由がHONDAらしい
「HONDAらしい」と言うより「本田宗一郎らしい」の方が、しっくりくる
それは宗一郎さんが1946年に「本田技術研究所」を創業した
(本田技術研究所社員12人とその家族。後列右から3人目は後に本田技研2代目社長になる河島喜好氏)「マン島TTレースに参戦するぞ!」と打った話はあまりにも有名だ
そこから、参戦させるバイクの研究を繰り返し・・・迎えた1959年
1周60km、高低差415m、コーナー数200以上の公道を閉鎖して行われるマン島を初挑戦の舞台として選んだ
ホンダチームはスポット参戦でエンジンにDOHC4バルブの125cc、RC142でチーム賞を獲得
(RC142でマン島を走る鈴木義一ホンダチーム主将の雄姿)その後、ホンダはマン島で初優勝を飾るが、その優勝までの裏側ではマン島でホンダのバイクを観つ続けていたイタリアのバイクメーカーの開発者がいた
レース前の今で言うレセプション会場で、そのイタリア人のバイク開発者は宗一郎さんにアドバイスをした
「カネテヨリ、ホンダサンノドリームゴウ二、カンシンシテイマシタ。ホレコミマシタ。」
「デスカラ、オネガイガアリマス」
「ドリームゴウノ、ウンテンスルセンシュヲ、ワタシ二マカセテモラエマセンカ」
「スバラシイオートバイヲ、ウンテンスルニハ、スバラシイウンテンギジュツヲ、モッタセンシュガ、ヒツヨウデス」
「ワタシハ、ドリームゴウガ、ソノヨウナセンシュ、ニヨッテ、イカンナクハッキデキルスガタヲ、ミタイノデス」
このイタリア人の依頼に宗一郎さんには異存はなかった・・・らしい
そこには
「確かにこのイタリア人が言うように、いかに素晴らしい性能を持っているオートバイでも、その乗り手如何によって持てる力の半分も出しきれない」
そのことを宗一郎さんは、よく知っていたからだ
そして、その後、バイクレースの檜舞台であるマン島TTレースでホンダは初優勝を飾るのである
だが、そのレースを観戦していた宗一郎さんは最後までホンダのバイクが何位なのかも分からず、ただ海外勢と同等以上に走る姿に感動していた
そこに観戦中、我に返った時、誰かが宗一郎さんの手を強く握りしめていたのに気づいた
その手の主を見た
数日前に宗一郎さんを迎えたイタリア人だった
そのイタリア人も感動で身震いしながら宗一郎さんに
「アト、イッシュウデ、アト60キロデ、アナタノ、ドリームゴウガ、ユウショウデス」
「アナタノクニノ、アナタノオートバイガ、セカイイチノエイカンヲ、カチトルノデス」
宗一郎さんはイタリア人に言われてあらためて目を見開いた
「なんですって!わしのドリーム号が一着を走っているんですか!」
だがドリーム号の姿は宗一郎さんの目の届くところにはなく、森の向こうにいた
そして遠くに見えるゴール前・・・ドリーム号が現れた
大観衆がどよめいた
「二ホンノダ!・・・ドリームゴウダ!・・・二ホン!・・・ドリームゴウ!」
こんな歓声が宗一郎さんの耳に否応なしに入ってきた
その歓声が百雷の落ちるに似た声となって宗一郎さんの耳を襲った
宗一郎さんは自分を見失うような感動の中に落ち込んでいった
・・・・という本田宗一郎物語の一幕だ
そこには本田宗一郎の「飽くなき技術革新の使命」のようなモノを自身は好きだ
話を冒頭の「ホンダがF1再参戦」の続きに戻す
F1界は30年までにカーボンニュートラルを実現する目標を打ち出し、26年からパワーユニットの最高出力に占める電動モーターの割合を従来の20%から50%に高める
さらにカーボンニュートラル燃料を100%使うことも義務付けた
ホンダにとってF1はレース車の開発から得られる知識と経験を量販車に生かすための「走る実験室」だった
ここにもマン島に挑戦した時代の宗一郎イズムは脈々と引き継がれている
そして、そのF1界が脱炭素の実現に舵を切ったことで
ホンダは「F1から得られる技術やノウハウが、これからの量産電動車の競争力に直結する」
その道筋を見ることができると結論付けた
さらに詳しい内容は省略するが、自身は昔からホンダが好きだ
そこにはホンダというより本田宗一郎の「モノ創りの考え方」が好きなのかもしれない
企業である以上、企業の使命には株主還元として利益の向上は、いつの時代でも付き纏っている
だが利益も重要な指標には要素としてあるが、宗一郎さんは本田技術研究所設立の前に町の修理屋を営んでいた
そんなある時、クルマの重要な部品のピストンリングで悩んでいた
「こんな単調な輪一つが摩滅したり均衡を保てなくなっただけで自動車の動きが全く力を失ってしまう」と・・・
修理屋レベルでは一向に解決の糸口が見つからず儲かっていたはずの修理屋を畳んでしまった
その工場は番頭に無償で譲って「好きにしてくれたら良い」と・・・
そして浜松高等工業学校の門をたたいて自動車の基礎的理論を徹底的に学んだとある
この一部分を知って本田宗一郎の凄さに自身は感動をした
今どきの乗り物は「速く走れば良い」とか「燃費が良い」とか、いろいろ言われるが
本来、自身は、その乗り物のストーリーが好きで購入に至っているように思う
そんな事から自身はホンダ車が好きなのかもである
だがT-PADDOCK630では伝説のホンダ車は4台、全て嫁いでしまった
ただCB77は、あるにはあるが・・・
T-PADDOCK630ショールームにあった、美しい佇まいのCB77だ