2023年6月15日木曜日

『Bike in the sky』#340 再参戦!いや復活だ!

先日、HONDAが2026年からF1に再参戦すると発表した

この記事を読んだ時、得も言われぬ感動が自身の身体を駆け巡った

HONDAは過去にも再三「F1から撤退と復活」を繰返している

過去の撤退の理由は「業績に影響が・・・」とか、だったように記憶している

だが2020年の撤退は「次世代エンジンの研究開発に経営資源を投じたい」とした理由からだ

そして今回のは復活の理由がHONDAらしい

「HONDAらしい」と言うより「本田宗一郎らしい」の方が、しっくりくる

それは宗一郎さんが1946年に「本田技術研究所」を創業した

(本田技術研究所社員12人とその家族。後列右から3人目は後に本田技研2代目社長になる河島喜好氏)

その創業から10有余年が過ぎた頃、宗一郎さんは朝礼で社員を前に木製ミカン箱の台上に立ち・・・

「マン島TTレースに参戦するぞ!」と打った話はあまりにも有名だ

そこから、参戦させるバイクの研究を繰り返し・・・迎えた1959年

1周60km、高低差415m、コーナー数200以上の公道を閉鎖して行われるマン島を初挑戦の舞台として選んだ

ホンダチームはスポット参戦でエンジンにDOHC4バルブの125cc、RC142でチーム賞を獲得

(RC142でマン島を走る鈴木義一ホンダチーム主将の雄姿)

その後、ホンダはマン島で初優勝を飾るが、その優勝までの裏側ではマン島でホンダのバイクを観つ続けていたイタリアのバイクメーカーの開発者がいた

レース前の今で言うレセプション会場で、そのイタリア人のバイク開発者は宗一郎さんにアドバイスをした

「カネテヨリ、ホンダサンノドリームゴウ二、カンシンシテイマシタ。ホレコミマシタ。」

「デスカラ、オネガイガアリマス」

「ドリームゴウノ、ウンテンスルセンシュヲ、ワタシ二マカセテモラエマセンカ」

「スバラシイオートバイヲ、ウンテンスルニハ、スバラシイウンテンギジュツヲ、モッタセンシュガ、ヒツヨウデス」

「ワタシハ、ドリームゴウガ、ソノヨウナセンシュ、ニヨッテ、イカンナクハッキデキルスガタヲ、ミタイノデス」

このイタリア人の依頼に宗一郎さんには異存はなかった・・・らしい

そこには

「確かにこのイタリア人が言うように、いかに素晴らしい性能を持っているオートバイでも、その乗り手如何によって持てる力の半分も出しきれない」

そのことを宗一郎さんは、よく知っていたからだ

そして、その後、バイクレースの檜舞台であるマン島TTレースでホンダは初優勝を飾るのである

だが、そのレースを観戦していた宗一郎さんは最後までホンダのバイクが何位なのかも分からず、ただ海外勢と同等以上に走る姿に感動していた

そこに観戦中、我に返った時、誰かが宗一郎さんの手を強く握りしめていたのに気づいた

その手の主を見た

数日前に宗一郎さんを迎えたイタリア人だった

そのイタリア人も感動で身震いしながら宗一郎さんに

「アト、イッシュウデ、アト60キロデ、アナタノ、ドリームゴウガ、ユウショウデス」

「アナタノクニノ、アナタノオートバイガ、セカイイチノエイカンヲ、カチトルノデス」

宗一郎さんはイタリア人に言われてあらためて目を見開いた

「なんですって!わしのドリーム号が一着を走っているんですか!」

だがドリーム号の姿は宗一郎さんの目の届くところにはなく、森の向こうにいた

そして遠くに見えるゴール前・・・ドリーム号が現れた

大観衆がどよめいた

「二ホンノダ!・・・ドリームゴウダ!・・・二ホン!・・・ドリームゴウ!」

こんな歓声が宗一郎さんの耳に否応なしに入ってきた

その歓声が百雷の落ちるに似た声となって宗一郎さんの耳を襲った

宗一郎さんは自分を見失うような感動の中に落ち込んでいった

・・・・という本田宗一郎物語の一幕だ

そこには本田宗一郎の「飽くなき技術革新の使命」のようなモノを自身は好きだ

話を冒頭の「ホンダがF1再参戦」の続きに戻す

F1界は30年までにカーボンニュートラルを実現する目標を打ち出し、26年からパワーユニットの最高出力に占める電動モーターの割合を従来の20%から50%に高める

さらにカーボンニュートラル燃料を100%使うことも義務付けた

ホンダにとってF1はレース車の開発から得られる知識と経験を量販車に生かすための「走る実験室」だった

ここにもマン島に挑戦した時代の宗一郎イズムは脈々と引き継がれている

そして、そのF1界が脱炭素の実現に舵を切ったことで

ホンダは「F1から得られる技術やノウハウが、これからの量産電動車の競争力に直結する」

その道筋を見ることができると結論付けた

さらに詳しい内容は省略するが、自身は昔からホンダが好きだ

そこにはホンダというより本田宗一郎の「モノ創りの考え方」が好きなのかもしれない

企業である以上、企業の使命には株主還元として利益の向上は、いつの時代でも付き纏っている

だが利益も重要な指標には要素としてあるが、宗一郎さんは本田技術研究所設立の前に町の修理屋を営んでいた

そんなある時、クルマの重要な部品のピストンリングで悩んでいた

「こんな単調な輪一つが摩滅したり均衡を保てなくなっただけで自動車の動きが全く力を失ってしまう」と・・・

修理屋レベルでは一向に解決の糸口が見つからず儲かっていたはずの修理屋を畳んでしまった

その工場は番頭に無償で譲って「好きにしてくれたら良い」と・・・

そして浜松高等工業学校の門をたたいて自動車の基礎的理論を徹底的に学んだとある

この一部分を知って本田宗一郎の凄さに自身は感動をした

今どきの乗り物は「速く走れば良い」とか「燃費が良い」とか、いろいろ言われるが

本来、自身は、その乗り物のストーリーが好きで購入に至っているように思う

そんな事から自身はホンダ車が好きなのかもである

だがT-PADDOCK630では伝説のホンダ車は4台、全て嫁いでしまった

ただCB77は、あるにはあるが・・・

T-PADDOCK630ショールームにあった、美しい佇まいのCB77だ

それが自身の転倒で
無残にも哀れな姿になってしまった

前方から右に倒れるように滑ったと思われ
ハンドルは左に切った状態から縁石か何かに突っ込んだ様子で、ヘッドライト部分から左フォークカバーにダメージが大きい

だが
ハンドルは路面に引っかかったような強い衝撃を受けたのか、ポストから右側がグニャりと曲がっている

フロント左ウィンカーも衝撃からは逃げられず破壊されている
ただ、ウィンカーに関しては転倒を予測していたのかは不明だがレプリカ品で、確かオリジナルは保管していたように思うが・・・

ただガソリンタンクと

フロントフェンダー
この二つのダメージは大いに痛いと言ったところだ

今回、自身が転倒してCBが大破したことで、月ヶ瀬メンバーのお一人から

「CB,どうすんの?」とご心配を頂いていた

その時は、家族のバイク禁止令が出たこともあり「修理するより減らしついでに売却する」と返答していた

すると「買手がおるよ」と紹介いただき手放すことにしていた

ところが3カ月ほど経っても一向に気配もないことから、買手さんをご紹介頂いた方が・・・

「もう、売るのを止めた方がエエなぁ」と買手さんに売買中止の連絡をして頂いた

そんな経緯から「CB77をこれからどうするか・・・」

迷っていたところで今回、冒頭の「ホンダF1復活」の記事を目にした

その記事を読んでいて自身は文中の「復活」なる言葉に「ぐっぐっ!」と押される感覚を覚えた

そこには自身の家庭内の変化もある

最近は「バイク禁止令」も少々、トーンが変わってきている

と言うのは先日の週末、家人から

「あした、雨模様やなぁ・・・またバイク乗られへんなぁ・・・」と!

「うん?・・・そやな」とだけの生返事で、それ以上は何も発せず黙っていた

自身の内心は「えっ?いつからバイクの許可が下りたん?」なのだが余計なことは聞かずに大人しく目立たない様にバイクに乗っている

そんな家庭内の葛藤もあったが「F1復活」に押され、CB77の復活を地味に始めようと思った次第だ

HONDAは1959年のマン島優勝から翌年の1960年

マン島優勝から知見を得たことでCB72のファーストモデルを発表し販売を始めた

それが下の・・・
地味なCB72だが、今の時代では逆にストイックで新鮮な乗り物に映るかも・・・

だがHONDAのF1復活の大義とT-PADDOCK630のCBという旧車復活の大義?

なんか大義の方向が真逆になってないかぇ?・・・

T-PADDOCK630 T/Tatsumi

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