2019年12月26日木曜日

『Bike in the sky』#162 今年も一年間お世話になりました

こんにちは。

X,Masも終わり今年も残すところ、あと5日ほどです。

しかし毎年想うことですが「もう少しでお正月」というワクワク感が全く感じないのは筆者だけでしょうか!?

私たち世代の小さかった昭和30年代から40年代後半までは毎年、年末になるとワクワクしたもので
年末行事の「紅白歌合戦」は、どの家庭でも一大イベントと化してました。

その大晦日の紅白が始まる前、早めに近所の銭湯に行くのですが着替えの下着は男の子は薄いブルー、
女の子は淡いピンクで上下お揃いがどの家庭でも定番でした。

そして紅白も終わって寝床に入ろうとすると枕元には明くる日の元旦に着る“よそいき”の洋服が置かれているのです。
この行事?も、どの家庭でも定番で明くる日の正月を楽しみに眠りにつく、その幸せ感を小さいながらでも
感じておりました。

まさに高度成長期の日本が一番、輝いていた時代と思います。

「Bike in the sky」前号の末尾に「次回はHONDA特集で・・・」と記しました。

そのHONDAは、その高度成長期から私たちに大きな夢を与えてくれました。

しかし、時代も変わって現代ではHONDAだけでなく幾多の企業も色褪せているように感じます。

そんな中でビジネスの世界でもHONDAに期待する人は多いと、あるビジネス雑誌に目が留まりました。

また、ネットでも「HONDAが今年の12月初めに『二輪車世界生産累計4億台達成』」とアップされておりました。

4億台ですよ!4億台!

ほんまにすごい偉業だと感じざるを得ません。

そんなことで「HONDA特集」にしたいと思いました。
前置きが長くてすみません。

HONDAと聞けば思い浮かべるのは人によって様々です。

F1やスーパーバイク、S6、N3などなど・・・
また、「本田宗一郎」と思われる方もいらしゃるでしょう!?

どれも伝説には事欠かない話題満載ですが、今回の4億台達成の立役者はやはり「カブ号」
です!
これが1952年発売の初代カブで「カブF」です。
始動はペダルを漕いでかけるのですがミッションがないので途中停止はクラッチレバーを引いて行うのですが
スピードは40km/hと意外と早く馬力も米2俵を積んで余裕だったとか・・・

とにかく技術面がすごく、当時の燃費は122km/Lで自転車エンジンの革命と表され実走テストで東京-長津田-厚木-
平塚-江の島を焼き付きもなく完走したそうです。

しかし本格的モーターサイクルとしての装備も有して登場したのが、上のカブの2年前。
「HONDAの夢を乗せた“ドリーム”の1号車」1950年のドリームD型です。

このドリーム1号車から70年かけて4億台達成となったそうです。

バイクにドリームという称号を与えるのには、やはりこの人たちの存在なくしてHONDAは語れません。


本田宗一郎さんと女房役の藤沢さん!経営の名コンビでしょう!?

本田さんは、とにかく思いついたら金に糸目を付けず動くタイプですが、それを厳しい資金環境下でもコントロール
してたのが右の藤沢さんです。

この藤沢には逸話がありまして、あまりにも金遣いの荒い本田さんを見かねて藤沢さんの方から
「私を雇いなさい!」と偉そうに言ったとか・・・

そしてホンダの運命を変えたのがスーパーカブC100!
1958年、東京タワーが完成した年の8月、5万5000円で発売されました。

57年暮れの白子研究所(埼玉)でカブの試作車を見た本田さんと藤沢さんは「月産3万台売れるぞ!」と言ったのですが
周りの人たちは3千台の聞き間違いだと思ったという逸話が残っているそうです。

しかし3万台の生産の前にバイクの世界で月に3万台が売れた実績は、どこにも存在していなかった。
さらに当時、業界1位なっていたホンダですら月産3万台の生産能力はなかったとか!

そこで月産3万台を実現するために計画されたのが鈴鹿工場の建設だったのです。
この鈴鹿工場は現在では4輪の工場として稼働してますが60年には日本初の「無窓工場」として操業します。
そこには「常温に近い管理された環境の中でこそ精度高い製品が生まれる」という深遠なホンダイズムがあったそうです。

ここから1960年代に入ってきますと皆さんもお馴染みのCB系がHONDAブランドの主役になっていきます。

そして1962年10月、第9回全日本自動車ショーにHONDAから3台の4輪車がベールを脱ぎます。
HONDA  S360とS500そしてT360
S360と500の違いは軽自動車規格と普通車の排気量とリアのオーバーハング(トランク部)の長さの差ぐらいでしたが
性能的には当時としては常識破りの高性能マシンでした。

そして、さらに常識破りのT360
HONDAの4輪での市販車、第1号が軽トラ!

ボンネットにはエンジンは無くフロア下のミッドシップ・マウント。
そのエンジンはS譲りの4連キャブ、ツインカム4気筒、各気筒ごとに独立したブランチタイプのエキパイなどで
30馬力、最高速100km/hと当時のひとクラス上のトラックと同等と謳っていました。

そして1964年8月、国産初のF1マシーンとしてドイツGPにデビュー!
横置きV型12気筒のRA271 結果は13位とその後イタリア、アメリカと参戦!

そしてF1デビューから僅か1年後の1965年、RA271の改良モデルのRA272改がメキシコ戦で初優勝を飾ってます。

4輪車生産に乗り出したのが1962年!
そこから僅か3年でモータースポーツの最高峰F1で優勝をしてしまうHONDAの技術力!

その後の4輪車は1966年のN360!
和製ミニクーパーと称され価格31万円も手伝って大ブレイク!
当時のジムカーナのレース場はワンメイクレースかと思うほどN360ばかりだったのを思い出します。

筆者も欲しいと思っておったのですが、その時はまだ中学生。

その後の1970年に発売された軽初の“スペシャリティカー”のHONDA  Z
たしか高校を卒業して彼女も欲しいと思っていた頃。
ならば「クルマは男の必需品!」と購入したのが、このHONDA  Zでした。
当時の懐かしい写真が出てきました。
奥の赤いZが筆者のZで手前のフェローマックスが親友の伊藤君の愛車!

伊藤君とは、ほんまによく遊びましたが今から15年ぐらい前に肺がんで53歳の若さで亡くなってしまいました。

また、その当時HONDA初の普通車で1300セダンの“77”と“99”が発売されました。
そのクーペモデルに1300COUPE 9Sがありました。
フロントのグリルデザインを“イーグルマスク”と呼ばれ、その大胆さがヒットしました。

そして1972年!
一躍、HONDAを「世界のHONDA」に押し上げた初代シビック!

一つは「FF2ボックス」というカテゴリーを世界に認知させる「トレンドセッター」であったこと。

もう一つがクリーンな排気ガスを求めた「大気汚染防止法(マスキー法)」に対処するため
“空冷信奉者”の本田宗一郎を開発スタッフが説き伏せて水冷化し他社に先駆け、いち早くマスキー法をクリアしたこと。

ここから先のシビックのストーリーは皆さんもご存じの通りです。

ここまでザっとHONDAの歴史を綴ってきましたが、二輪では有名な「マン島TTレースの伝説」
そして四輪での「F1 RA300、301,302」などなど・・・は皆さんも普通に見聞きされてると思いましたので
省略しました。

今回「HONDA特集」をアップしようと思ったのは冒頭の「HONDAに期待する人」が多く筆者もその一人であることから
先ず、その歴史認識をしてから今後のHONDAに期待したいのですが、HONDA内部でもいろいろと意見が
分かれております。

その中で本田技術研究所の浅木センター長の見解も交えた記事を読んで筆者はちょっと「ぞくっ!」とする感覚を
覚えましたので記事にしました。
雑誌を直接撮ってますので少々、見辛いと思いますが拡大して読んで頂ければ幸いです。

元気な日本を取り戻したいと思うのは筆者でけではないと思います。

また乗り物好きとってもトヨタではなく、やはりホンダに頑張って欲しい夢を感じます!

今年のブログも今号が最後ですが一年間、お付き合い頂きありがとうございました。

どうぞ良いお年をお迎えください。

T-PADDOCK630 T/Tatsumi

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